『「ひとり」の哲学』

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読書日記

2017年01月24日

『「ひとり」の哲学』 山折哲雄 新潮選書 1300+税

いい本だ。じっくりと考えさせられる。
「ひとり」や「個」、「個人」はたまた「孤独」の違いが分かる。
「ひとり」とは、皆とあるいは皆の中で、自分の思いをしっかり持って、ひとりで広い社会とあるいは大自然と歩んで生きてゆく覚悟の事。
「個」もそれと同じく自立することである。「ひとり」と「個」は確たる基盤に立つことのできる人間たちだった。
親鸞、道元、日蓮、法然、一遍らの姿を追って、そのことを探っている。前3者を日本における「軸の思想」のひとびとと捉える。
カール・ヤスパースが紀元前800年から前200年の間に人類最大の精神革命があったとする「基軸時代」説を参考にしている。そのころ中国では孔子らの中国哲学が登場、インドではブッダらが、イランではゾロアスター教、パレスチナではエリアから第二イザヤの予言者たち、ギリシャではホメロスやプラトンらの哲学者たち、などなど。

孔子、イエス、ブッダもひとりで歩きひとりで考えていたはずだ。と、この著者もかつて何度も訪れている地に、また、今度は高齢も手伝ってか若い編集者たちの運転する車で旅に出る。"旅に出ればこれまで身に着くことのなかった知識の断片がひらひらと宙を舞い飛び去って行くのが見える。インドの旅では、あの乾ききった大地の上をブッダがひとりで歩いていく姿が蘇った。イスラエルの砂漠では、孤影悄然と歩いていくイエスのやせ細った背中だけがみえた。中国北部の荒涼たる風景に身をさらしたときは、飲まず食わずでさ迷い歩いていく孔子の面影が眼前に迫ったことをおもいだす"、と。
旅行記のようにして哲学書を描いている。

だが、近代の分析的知性が「ひとり」と「個」を分断してしまった。
さらに、「個」を人と物に分解し分割してしまう。「個人」「個物」である。もはやひとりの広い世界とはまるっきり違う。現在の「個」はそれぞれの流儀で「箱」の中に囲われてしまっている。
そこでは衝突が起き、殺人が多発し、親殺し子殺しまで。

ひとりで立つことは、無量の同胞の中で、その体熱に包まれて生きるのである。太古から伝わるこの国の風土、その河川の中で、深く呼吸していきるのである。
その終わりのない「こころ」のたたかいの中から、「ひとり」の哲学はおのずから蘇ってくるはずである。

そろそろそんな「個」の世界から脱出して、こちら側にこないか、そんな窒息しそうな「個」の壁を突き破って、もっと広々とした「ひとり」の空間に飛び出してこないか、そんな思いをこめて、私はここまでこの文章を書いてきたのである。と閉めている。

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