利尻・礼文への旅 その3

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スローライフ日誌

礼文島での朝

昨夜は雷、大雨、雹など、北国の夜空はてんこ盛りの大賑わいだった。
そして朝、宿の窓を開けると、南隣の利尻島の利尻富士が全景姿を現わしていた。

が、朝食が済む頃から大雨襲来。

そして、8:40発のフェリーに乗って稚内港に戻る頃は雨は止んだ。

香深港は宿の直ぐ側

宿は三井国際観光ホテルという。
フェリー乗船を待ちながらの添乗員さんの説明が面白い。三井国際というが別に三井財閥とは関係ない、宿の主の姓が三井さんというだけと。そして、この島三本の指に入るいいホテルだと、島には3つしかホテルはないけどね、と。大笑い。
この中年の男性添乗員さんは、稚内から添乗した。住まいは稚内だという。父親は礼文に住んでいる。島に来ると必ず実家に寄るという。鞄を指して祖母が持って行けと、鮭がたくさん入っていて重いと
港前のホテルを指して、このホテルも9月いっぱいで閉じると。どこも9月いっぱいで観光客用の宿は閉じてしまうそうだ。そして、従業員は殆どが沖縄や鹿児島などよその土地からの夏季だけの派遣従業員だそうだ。ガイドさんの話を聞かなければ分からなかった。
観光バスのガイドさんも夏だけの派遣ガイドさん。
でも、皆さん本当に親切丁寧でよく勉強もしていて、感心してしまう。プロの素晴らしい意識を見させてもらった。

 

さて、フェリーに乗った。
このフェリーが面白い。椅子席はデッキのみ。あとは2等席は全てカーペット敷き。1等席は若干あり、和室だったり椅子席だったり。
団体旅行なので2等。みんながカーペットにごろりと横になる(座っていてもいいが、2時間は辛いかな)。
赤いカーペットはいわゆる優先席。
我々は5団体だったので少しは余裕があった。これがシーズンともなると満員で、まるで難民船のようになると、件の添乗員さんが笑う。
私は船酔いを恐れて酔い止めの薬を飲んだ。これは多分軽い睡眠剤だろう。そしてカーペットに横になった。



稚内港に帰ってきた。

宗谷岬
日本最北端の地。北緯45°31'22"。

宗谷の辺りにたくさんの風力発電機のプロペラが建っている。飛行機からも目についていた。
ドイツの各街道筋はもっとすごかったが。
宗谷のウィンド・ファームだ。50機以上はあるという。風がなかったせいで殆ど回っていなかった。
10数年前、仕事で、宗谷と札幌の中間ほどに位置する苫前という地のウィンド・ファームを見学したことがある。ここも当時既に50機くらいのプロペラが建っていて、のんびり草を食む牧牛と見事に共生していて感心したことを思い出した。
自然エネルギーの利用がようやく本格的になってきたようだ。
しかし、人間のライフスタイルを本格的に考え直していかないと、このままではすまないはずだ。
地球温暖化問題が、豪雨や大型強力台風の頻発でまた言われ始めたが。

間宮林蔵の立像
文化5年(1808年)に宗谷から樺太に渡り、樺太と大陸が離れていることを発見。樺太が島であることを幕府に伝えた。
海峡は間宮海峡とした。
昔の人はすごかったな。間宮といい我が千葉の誇る伊能忠敬といい。
間宮生誕200年の1980年にサハリン(樺太)を見つめるこの像を建立。


日本最北端の地の碑


土産物屋の中にある流氷館


流氷の実物が展示してあり、氷るような寒い部屋。


には遭遇しなかったので剥製をパチリ。

キタキツネも剥製で我慢してパチリ。

遠くサハリンを望む北国の海

 

13:00稚内空港発の飛行機で無事戻ってきた。 

「その1」にも書いた通り、イザベラ・バードの『日本奥地紀行』にも促されて、久々に北海道のまだ行ったことのない地に行ってみた次第。いろいろといい勉強になった。
どちらの島だったか、ガイドさんが「昔この島に天然痘が流行り、当時アイヌの人びとは漢方薬で治療していたので、アイヌの人びとはその時以来絶えてしまった」という話したのを思い出す。バスでは酔うのでメモは取れないので困ったものだ。

お世話になった皆様有り難うございました。


[完]

 

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