悦子の談話室

三陸海岸の旅 1

     
 

2014年06月24日と25日、三陸海岸へ出かけた。
三陸鉄道の全線開通を記念して、いつも利用している旅行会社クラブツーリヅム実施の旅である。
三陸鉄道北リアス線に乗車した。
途中の島越駅は津波で流された。その駅舎復興をクラブツーリヅム社も支援している。

三陸海岸へ行くというと、幾人かのひとは、゛美味しいものを食べに゛とか、゛NHKの朝ドラの舞台を見に`とか問う。
私は朝ドラなんて見たこと無いし、ましてや美味しいものが主目的の旅はしたことが無い。
多分既に、日本国民の間にも東日本大震災被災の意識が遠のき始めているのか。
石原環境大臣の゛後は金目でしょ゛発言もあったことだし。

以前に仕事で訪れたことのある各地。私は大震災以降、せいぜい東北の物資を購入したり、寄付をしたりということしかできないでいたのがどうにも気掛かりでいた。
何事も現場主義であるが自力では伺うことが出来ないでいた意気地無し、3年も経ってしまったがようなく現地を訪ねることができた。
訪れたところは限られたところだけではあったが、バスの通る地帯は全て被災地で、瓦礫の山はほぼ片づき、でも家屋の土台などのが残る爪跡あとに草が茂り、人はいない、山を崩して地盤沈下した土地の嵩上げ作業の進むところの砂埃、作業の人手は足りなそうに車窓から見え、ダンプカーも東京オリンピック工事のためにいなくなるのではと地元の人の心配、などなど聞く。
いたるところに仮設住宅がある。
「被災された地元の人々に寄り添って」とはよく言われる言葉だが、言うだけでは全く意実の無い言葉で歯が浮いてしまう。「絆」という言葉もそう。いうだけでなく実行に繋げなければ。そして、ずーっと。

地元で、復興支援と書いてあるものはできるだけ購入した。
仮設小屋でお土産を売っている女性に聞いた「失礼ですが大地震の時はどうされましたか」と。「家に家族といた。みんなで高台に逃れて助かった。でも家は流された」と。美しく明るい顔で話してくれたが、その奥にはきっと語りたくない話も多いのではないかと思われる。「元気で頑張って下さい」と言うと、「有り難うございます」とあくまで明るくしていた。
被災体験を話してくれた人、接客係の人、その他多くの人々が力強く明るく元気にしていた姿にこちらまで勇気をもらった。未曾有の惨い体験は、新たに力強くなれたのか。そうしないと生きてはいけないのあろう。生半可な気力ではない。

美智子皇后の、被災直後のご慰問の折りのお言葉、「生きていてくれてありがとう」はいまだに私の胸を揺すぶる。


以下、旅の概ねを記す。

新幹線で盛岡まで。
以降バスの旅。

盛岡から龍泉洞へ

バスは国道455号線を東に走る。
緑の山の中を、外山ダムから広大なダム湖に沿って外山早坂自然公園を通り、本州で一番寒い地の藪川を通り、道の駅三田貝分校で休憩。


元の分校を道の駅にしている。


分校の時に使われていたオルガン。


さらに東へ。

岩泉町にある龍泉洞を見学。
私は2度目のだが、先の大地震のため、透明度がおちてきたそうだ。
水量の多いことと高透明度、そしてコウモリの生息で名高い。


こうした山の中にある。

新洞


古代の家族の模型。


北山崎

太平洋側に出てきた。
風光明媚なリアス式海岸。
入り組んでいるために、津波が押し寄せてしまう。

 

そして、三陸のリアス式海岸を南下。
三陸鉄道北リアス線の島越駅に向う。

バスの車窓から。
被災した海岸が続く

防潮堤が壊れたままの姿がまだ残っている。
痛ましい。

盛り土をしたりの作業は続く。
しかしどう見ても人では足りない。


羅賀荘。
北山崎の玄関口にあたる。


モニュメントとして作られた三陸鉄道。



三陸鉄道北リアス線の半ばにある島越駅

北の久慈駅から宮古までが北リアス線。

新しく線路が復旧敷かれた。今年の4月6日に開通した。
この辺りは多くの民家があったが、今は全くの更地となっている。


復旧再建されている島越駅舎。


残されている瓦礫


この宮澤賢治の歌碑だけ、海に直角に建っていたので残っている。


あの2軒だけは残った。
高い土地だったから。


島越駅は無人で開業。
プラットホームまで足場を登る。

ホームから、線路の奥側と海側を見渡す。


この平地を、津波は全てをなぎ倒し飲み込んで駆上っていった。


入り江の復旧作業が続く。


被災以前の鳥観写真が示されていた。


トンネルから電車が走ってきた。
クウェートの国旗の横に感謝の意が書いてあった。支援をもらったのであろう。
このトンネルの中に、運転手の機転で駐まったままでいた電車は助かった。


三陸鉄道北リアス線に乗車

島越から宮古まで。


"ニコニコ"だ。明るい花びらの車体といい、みんなで元気を呼び戻そうとしている。
満員だった。


北リアス線はトンネルが多く、駅に駐まった時しか外が見えない。
ここは小本駅。
仮設住宅が建ち並ぶ。

摂待、田老、佐羽根、一の渡、山口団地と駅があって、宮古に終着。
20m以上もする大津波の被害にあった町が続く。

宮古到着。
2輌編成だった。1輌の場合が多い。
こちらは魚の絵だ。

宮古は三陸鉄道の駅とJRの駅とある。


宿泊の休暇村陸中宮古へ。

途中、学校校庭にはぎっしりと仮設住宅が建っていた。
電柱には、押し寄せた津波の高さが、6mとか10mとか記されている。
市街はすでに多くが開店していて活気を取り戻しつつある。

休暇村も復興していた。
食事は夕食も朝食も、新鮮な海の幸、山の幸の心のこもったアットホームないいものだった。

(14.06.29 了)

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