南薩摩の旅

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スローライフ日誌

2010年05月21日

元職場の先輩が鹿児島県南さつま市に風力発電所を建設した。
その竣工式に招かれ、思いがけなく素晴らしい南薩摩の旅をさせて頂いた。

鹿児島には大学生時代亡父と九州旅行をした折に寄ったことがある。もう40数年前の記憶だ。
そして仕事で何度か来た。
改めてこうしてゆっくりと案内して頂いて、鹿児島県の南薩摩の自然のそして文化の食材の豊かさに感歎した。

景色は正に南国。
山々の緑が深くボリューム感が特別だ。
海はどこまでも青く、湾のためかあくまでも静か。白波ひとつたたない。
(さつま白波という銘の焼酎があったはずだが?!)

先ず、鹿児島空港の立派さに驚いた。
国際空港としてアジアへ繋がり、南の島々への玄関口でもある。


遠く北東に、右から高千穂峰、霧島山、韓国岳などが連なる。

 

仙嶽園、別名磯庭園。

鹿児島市の海岸沿いにある鹿児島藩主島津家別邸跡である。
1658年万治元年19代当主島津光久により造園。
借景技法を用い桜島を築山に鹿児島湾を池に見立てた広大な庭園。
1958年国指定名勝となる。


仙嶽園の前に鹿児島湾そして桜島が広がる。


受付の脇奥に鶴嶺神社。


受付。


園に入ったところ。


昇平丸模型
幕末には薩摩藩は単独でイギリスと戦争をおこした(1863年)。
そうした経緯もあり、西洋の威力を目の当たりにし、鎖国時代に西洋の専門書を独学し、船や大砲を独力でつくり上げ、この地での富国強兵殖産興業策を推進した。
この敷地で、ヨーロッパ式製鉄所やガラス工場を建設し、その跡「反射炉」が残されている。

また、日本初の西洋式紡績工場も慶応3年に建てられ、その指導者として招かれていたイギリス人技師の宿舎も「異人館」としてこの近くに残っている。

昇平丸に掲げた白地に赤い太陽の幡は、のちに国旗「日の丸」として採用されたといわれる。


正門を中から眺める。
明治28年に建てられた。
島津家家紋の丸十紋と桐紋が彫り込まれている。
桐紋はいわれを説明されたが、忘れました。


桜島を築島に見立てる。


錫門。
錫で瓦を葺いてあり、園築庭当時の正門。当主と嫡男のみが通る門。
27代当主が園の拡張をはかってからは中門となった。


獅子乗大石灯籠。


磯御殿。


屋久種五葉松。
樹齢何百年か。


望嶽楼。
19代の時、琉球王国から贈られた。
従って琉球式。


後ろの山に刻まれた「千尋巌」。
1814年に27代斉興が彫らせた。
3文字で11m。

 

桜島
南岳、中岳、北岳(御岳)と連なり、南岳で今なお噴煙をあげる活火山。
東側は、大正3年の噴火で流れ出した溶岩によって大隅半島の垂水市と陸続きになった。

フェリーが鹿児島市と15分で結ぶ。
10分おきくらいに頻繁に往き来している。


有村溶岩展望所。
大正3年の噴火でできた溶岩原にあり、噴火口がよく見える。
この日は全く静かであった。


枇杷が名産で、袋を被った枇杷の木々がたくさんあった。
指宿に向かう道中も枇杷畑がたくさんある。


指宿砂むし風呂

 
聞きしに勝る砂風呂。
波打ち際の海底が熱いのだろう。
50℃という砂の上に仰向けに寝て、上からまたその熱い砂を掛けて貰う。
10分が目安という。
掛けられた砂の重いのなんのって。
で、じわーりと汗を絞り出すことができるのか。
いい気持ちだ。
途中の看板に、波打ち際は85℃の波がくるから用注意と!

 

知覧武家屋敷庭園

この度の合併で南九州市となった知覧町。
母ケ岳を借景に260余年の歳月を伝える、薩摩の小京都といわれる。
通りは鯉の泳ぐ清流溝が流れ、通りの両脇に植え連なる街路樹は、何と一本一本きれいに仕立てられた槇の植木である。

その表通りを溝をわたって奥まった通りに武家屋敷の街並みがある。

江戸時代薩摩藩は、領地を外城とよばれる113の区域にわけ、地頭や領主の屋敷である仮屋敷を中心に麓と呼ばれる武家集落をつくり、鹿児島に武士団を終結することなく分散して統治にあたらせた。
知覧もその外城の一つ。


とてもいい強い香りの花。

 
「男玄関」とある。                        こちらがその隣の 「女玄関」。


家の中。

地頭などの家で、下級武士の家であったのだろう。
それぞれみな現在も住んでいる。
見事である。

知覧町はお茶の産地でも名高い。
霜よけの風車が林立してまわっている。見晴るかす茶畑だ。
サツマイモの畑も苗が植えられていた。
これはもっぱら焼酎の原料。

同行した方々も、鹿児島の豊かさに感心しきりなスローな旅でした。

 

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