奈良の旅 1

トップ > 日記

スローライフ日誌

2011年11月10日
        12日更新

思い立って、11月08日と09日に奈良まで行ってきた。
正倉院展を一度観てみたいとかねがね思っていた。
開催は14日までだ。
奈良ホテルの宿泊予約が取れたので急遽出かけることにした。

家を5時40分に出て、久々に東京発新幹線、7時丁度に乗る。

かつては、月2、3枚の新幹線予約切符を持っていて、仕事で新幹線を多く利用していたこともある。
その際は事前に資料やメモ類に目を通さねばならず、目的地までもあっという間だった。

それに比べると、フリーでスローな旅、新幹線はとてもとても退屈だ。
新聞など10分ともたない。近頃の新聞の面白くないこと。
やはり、和辻哲郎の『古寺巡礼』を持ってくればよかったな。
でも、一泊で、出来る限り歩こうと、荷を軽くし、文庫本すら入れるのを止めた。
化粧品は口紅と櫛とコンパクトのみ。
ネットで検索、プリントアウトした東大寺などの資料を再度読む。

京都に9時半着。
乗り換え、近鉄で奈良まで。
10時には奈良に着いた。

駅で博物館入場券を買う。
既に近鉄奈良駅からの通りは人出で大賑わい。
多少の混雑は覚悟した。

正倉院展 奈良国立博物館

人と人懐っこい鹿をかき分け、奈良国立博物館に着くと、唖然!
朝早いほうが空いているかと思いきや、10時過ぎで、既に入館45分待ちの長蛇長蛇の列 !!
(帰りに通ったら夕方の方が列は少ない。)


右側から廻り込んで、正面を3回廻っての行列 !!!

内部は撮影はできませんでした。
当然ごった返している人並み。空きを見計らって、ゆっくりと、とまた人混みが…。

 ・ 金銀でん荘唐太刀(きんぎんでんそうのからたち) 聖武天皇の愛蔵品だったといわれる唐伝来の美しい太刀。唐草もようの金具に水晶やガラス玉が施されて、それは美しい鞘に収められている。太刀もいまだぴかぴかで、これならば実戦に使える。
正倉院には当初100の太刀があったが、殆ど戦で持ち出されて返却されていない。残ったのはこれ一つ。
 ・ 黄熟香(おうじゅくこう)ー蘭じゃ待(らんじゃたい)  沈香の香りの大きな香木 。
 ・ 碧地金銀絵箱(へきじきんぎんえのはこ)  空色の地に美しく花や鳥が彩られている小箱。 

その他、絞り染めの上着、これは東大寺造営担当の役所の役人の作業着(名前が書かれていた!)。東大寺三堺四至図(とうだいじさんがいししず)、東大寺の寺域を定めた756年6月9日の地図。十二支八卦背円鏡(じゅうにしはっけはいのえんきょう)、十二支文や八卦文、四神(青龍、白虎、朱雀、玄武)などが描かれた宝物鏡56面中最も重い52.8kgの鏡、日本製。出蔵帳、宝物を正倉院から出した時の記録。
等々が展示されている。

奈良の都の天平の当時がそのまま伝わってくる、有り難くも不思議な香り、を嗅ぐように努めました。


1時間ほど鑑賞した。
午後は徒歩で東大寺へ向かう。


東大寺

そうそう、インドの牛のように、奈良には鹿がたくさんいます。
それがなんともかわいい。すまし顔で、寄ってきます。
インドの牛は宗教上ですが、奈良公園の鹿は、国の天然記念物に指定されています。
1200年以上も前の昔、春日大社の祀る武甕槌命(タケミカヅチノミコト)が常陸(今の茨城)の鹿島神社から白鹿に乗ってやってこられたことから、鹿は神の使いとして大切に保護されてきたとのこと。





東大寺参道

奈良市の東の方、三笠山麓の深い緑の中に東大寺はある。

 その昔、遣唐使として唐に遣わされた阿倍仲麻呂は、玄宗皇帝に見込まれ唐の図書館長のような職に就かされ、帰国が果たせなかった。
 彼の読んだ詩 
  " 天の原 振りさけ見れば春日なる 三笠の山にいでし月かも " 
 望郷の念が滲み出ている。
 以前に西安に旅した時、この詩碑が建つ長安(今の西安)の地に佇んだことを思い出した。


東大寺の正式名称は華厳宗大本山
 始まりは、聖武天皇の皇太子基親王(もといしんのう)の菩提を追修するために神亀5年(728年)に建てられた金鐘山寺(きんしょうさんじ)。
 その後、天平13年(741年)に国分二寺(金光明寺・法華寺)建立の詔が発せられ、金鐘山寺が昇格して大和国金光明寺となった。
 東大寺という言葉は、正倉院文書(天平19年12月15日「写経所解」)などに出てくる。金光明寺が大仏殿を中心とした大伽藍となり、平城京の東に建つ大寺(官寺)と言う意味で東の大寺と呼ばれるようになった。
  
 金鐘寺において天平12年から3年間、我が国で初めて華厳経の講説が行われる。東大寺は華厳経である所以。

東大寺南大門



大仏殿(金堂)

聖武天皇は医療福祉行政に尽くす。
天平15年(743年)、万代の福業を修めるため「盧舎那仏造顕の詔」を発し、大仏造像事業が始まる。
大仏さまが大きいのは、華厳経によれば盧舎那仏は宇宙(無限大)そのものであるよう表現されているため。
 


左側に廻ると入り口。
左右ぐるりと回廊で大仏殿に繋がる。


大仏殿

大仏さま

ぐるりと拝観。


お側に使えている仏像ら。

 

四月堂


二月堂の2階から見た東大寺界隈と遠くに奈良の街。

 

二月堂

大仏開眼供養会が天平勝宝4年(752年)に行われ、二月堂で修二会が行われ、これは今日まで絶えることなく「お水取り」「お松明」として伝えられている。


お休み処の古い釜。現役。


三月堂


散策途中、大仏さまを造るのに余った鋳物で造られた鐘に出会う。

大仏殿に戻ってきました。
修学旅行の面々も混じって、この人混みです!!!
秋の午後、時期も時期ですから、ね。



このように、ぐるりと大回廊で繋がっています。

門の両側におわします仁王さま。


参道まで戻ってきました。
修学旅行の生徒たちで賑やかです。
私も40年、いゆ50年前(!?)に、高校2年の春休みが奈良京都への修学旅行でしたっけ。
いろいろとおもいだされます、懐かしいこと!
そして、大学生の時に、姉に連れられて奈良を旅とたことがありましたね。

一休みして、2時頃に興福寺へ向かう。


興福寺

藤原鎌足大化改新(645年)成功を願って造立した釈迦三尊像を安置するため、妻の鏡女王が山科に669年に建てた山階寺が起源。
都が近江から飛鳥に移る710年平壌遷都にあわせて現在の地に移された。
藤原氏や朝廷が係わって、以降絶大な勢力を誇る。

その後、源平戦乱の大火などにあう。

1868年の明治維新後、神仏分離政策、廃仏毀釈で、興福寺の僧侶全員が春日社の神官になり寺から出た。
寺は無住となる。

現在復興に立ち向かっている。

国宝館や北円堂で、運慶作の弥勒如来座像、阿修羅、無著世親菩薩像、などなどが特別展示中。


南円堂


五重塔


東金堂


南円堂


三重塔


北円堂
藤原不比等一周忌の養老5年(721年)、元明・元正天皇がその霊を慰め、平城京を見渡せる地に建てられたもの。
治承4年(1210年)平家の焼き討ちで消失。他伽藍も消失。この北円堂は承元4年(1210年)再建。
この治承の大火の消失から、復興を担ったのが鎌倉時代を代表する運慶らの仏師たち


左側など中金堂の復元中。

 

かれこれ4時近くになりました。
そろそろ疲労感がでてきました。
ずーと歩いていましたから。
宿の奈良ホテルに向かいましょう。これも歩いて。

途中春日大社の参道がありました。
この鳥居をくぐって真っ直ぐ行けば春日大社です、が、止めておきます。

一の鳥居




程なく奈良ホテルです。
今日はこれでお終いっ。
流石に歩きくたびれましたです。

 

[前の日へのリンク]← 
→[次の日へのリンク]

NewChibaProject