フランスの旅10日間

海外旅行記

5日目(12/12)

テティエンヌからロワール地方へ(フランス中央部を行く)

先ずはブールージュ

テティエンヌを朝8時に出発。
まだ日はでていない。

途中休憩を入れて、およそ4時間30分、ロワール川沿いをひたすら北上するドライブ。
田舎を走るのが大好き。
葡萄畑や牧草地など田園風景が延々と広がる
フランスは農業国でもある。乳製品、野菜、果物などの自給率は豊かであろう。
ロワール地方は「フランスの庭」とも呼ばれて自然の美しさをも誇っている。

ブールージュ
中近東諸国との交易で巨万の富を築き、王シャルル7世の財相になり、ジャンヌ・ダルクがシャルル7世にランスに進軍せよと告げたときにその諸費用を全て負担したという豪商ジャック・クールの館のある町で有名。
われわれはそこには行かず、大聖堂へ。

サン・テチィエンヌ大聖堂

1198年に着工されたゴシック様式の大聖堂。

ステンドグラスが美しい。
ここは赤の色が特徴。
ブールージュ・レッドといわれ、やはりステンドグラスが美しいシャルトルのノートルダム聖堂の色はブルーで名高く、シャルトル・ブルーと呼ばれる。


13世紀のもの


12世紀のもの。

 

さらに2時間ドライブして、ロワール古城地方

ロワール側沿いのこの地方には、11世紀から15世紀にかけて建てられた城塞、城館いわゆるシャトーと呼ばれているものが大小あわせおよそ100戸もある。
当時の王侯貴族の政争はたいへんなもので、権力財力をしめすものとして、次々に建てられた。
当時の王宮は、パリのルーブル宮であった。

シャンポール城見学

シャンポール城は時の王フランソワ1世が1539年に狩りの館として建てた。
後に続くアンリ2世ルイ14世によって手が加えられて、400の部屋、70の階段、365の煙突を有するロワール随一の壮大な城となった。
館の中央に、フランソワ1世に望まれてこの地に滞在、没したレオナルド・ダ・ヴィンチ(モナ・リザは彼が大切に肌身離さす゛もっていたので、没した地のフランスの物となってルーブル美術館に収っている)が設計したといわれる、登る人と降りる人がすれ違わない、つまり誰が来たのか分からないで済む螺旋階段がある。

この辺の、政争や権力争い、女の闘いについては、『カトリーヌ・ド・メディシス』中央文庫に詳しく書かれている。
カトリーヌは、イタリア・フィレンツェのメディチ家からまだ文化が遅れて、手づかみで食していたフランスの王家フランソワ1世の息子に、14歳で巨万の持参金とイタリアルネッサンスの豊かな文化、ナイフとフォークの食文化などを携えて嫁ぎ、幼くして王位についた子供たちの摂政として、またフランス宗教改革でサン・バルテルミーの大虐殺のヒロインなどとして知られた。
夫王の愛人ディアヌとこの辺りの城、例えばシュノンソー城などを巡る争いは壮絶なものがある。
カトリーヌは舅フランソワ1世には可愛がられていた。

余談だが、カトリーヌが実家から婚儀でつけてきた真珠の首飾りは、嫁のメアリー・スチュワートにあげた。メアリーはエリザベス1世にロンドン塔で処刑された。『メアリー・スチュアート』アレクサンドル・デュマ著作品社が面白い。そのカトリーヌの首飾りをエリザベス1世が首に飾って描かれている絵があるという。
こんなことを思いながらこの古城辺りを歩くのは一興だ。

また余談だか、今回本場物をと毎朝美味しく食べたクロワッサンは、ルイ16世王妃マリーアントワネットが持ち込んだもの。オーストリアのハプスブルグ家はトルコ軍に攻め込まれていたため、トルコの国旗に描かれている三日月を食べてしまえとばかりにウィーンで流行ったパンだ。

さらなる余談だが、クリスマスを現在のように大仰に祝う習慣はオーストリアからきたもの。つまりマリーアントワネットがもたらしたといわれている。

シャンポール城は、ソーローニュの森というパリ市とほぼ同じ広さの森に囲まれている。


前の池に美しく映える城。


着の身着のままの美女も。


テラスから5500haに及ぶ庭園とその先の森を望む。


流石、狩りの館だ。


この広大な城に、暖房はこうした小さな暖炉があるのみ。
底冷えがする。


王妃のベッドルーム。


王のベッドルーム。


侍女のベッドルームか。

 

もう暮れかかってきた。

宿のあるトゥールへ1時間強のドライブ。

 

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